養老先生の記事を読んでいて、昔読んで面白かった本を思い出し、引っ張り出してきました。その中で身体についての面白い考察がありますので抜粋させていただきます。
「人工身体と自然の身体」
少なくとも日本の社会では現在、2つの身体があると思います。1つは「人工身体」つまり物理化学的に計量的に把握された身体です。健康診断の結果表に書かれた数字、あれが近代医学の中における人工身体の典型といってよいものです。身体のすべてのデータが抽出されて、抽象的な計量可能な数字になっています。こうした数字となんらかの論理的組立てでつくられているものが、私のいう人工身体です。それを進めれば、最終的には、身体は完全に読めるはずのもの、予測さえ可能なものです。
もう1つ別な身体が「自然の身体」です。自然の身体というのは、それがどうなるか、まったく先が読めません。論理的に読めないのです。これは癌の告知と同じようなもので、癌だと言われてみないと気分がどう変わるかわかりません。
医者が考えているのは人工身体ですが、ふつうの人の頭の中にあるのは、自然の身体です。そのため、ここのところで、医者と患者さんの食い違いがしばしば生じるのです。昔、東大病院では患者をモルモット扱いにする、と言われました。このモルモット扱いのモルモットというのが、まさに人工身体のことです。
私たちはものごとをはっきりと予測して計算できる社会をつくっていますが、実はそれをつくっている人間自体が、はなはだあてにならないことを忘れています。生老病死はすべて自然で、予測とコントロールの外にあります。予測とコントロールというのは基本的には脳の機能で、特に大脳皮質の強い機能です。
自然の身体が人工身体と違うのは、そうした予測とコントロールが成り立たない面を持っていることです。それに当てはまるのが「かけがえのないもの」という言葉です。一人一人の人生がすべて違うということです。
かけがえのない命と言う場合、一般的な命のことを言っているのではなく、ある人の、ある個体の生命を言っているのです。自然保護運動でよく「かけがえのない自然」という言葉が出てきますが、これは私からすると同語反復です。自然というのは、はじめから常にかけがえのないものだからです。ある山に生えている木の状態というのは、けっして回復しません。いったん切ってしまえば、元の状態になることはありません。それは我々の一生を見ればすぐわかると思います。
人工身体と自然身体という2つのいわば緊張関係が、日本の社会の中で展開されていると私は理解しています。
私たちがこれまで医学の進歩と呼んできたのは、基本的には人工身体の進歩です。つまり、論理的な、あるいは科学的な計量化可能なものを少し進めていくというかたちの進歩でした。医学も科学で実証的でなければいけないと言われますが、はたして我々はどの程度まで実証的でありうるのでしょうか。30億対の遺伝子を全部読んだところで、唯一客観的な現実としての人間など、実証的には把握できないことに気がつきます。
現代社会に暮らしていると自然の身体が現実から消えてしまいます・・・。自然の身体と人工身体というのは、まだしばらく分化を続けていくと思いますが、やがてそれは融合せざるをえないものです。それをどういうかたちで一致させるかが、この先の重要な問題であると思います。
― 以上抜粋
いろいろ調べていくと、現代社会においては「自然の身体」にとって悪いと思われるものが結構多いなと気づきます。それらを全部排除することは難しいのですが、できるだけ注意しながら生活していくことが大事なのかなと感じています。あまり神経質になってもいろいろとギクシャクしてしまいますから・・・。“ほどほど”に、ですね。